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アニメーション映画の最高峰、「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語」について、めっちゃ早口で語る【考察、感想】

「もう私は、躊躇ったりしない」


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まどか☆マギカ」。テレビ版を観て結末に感服し、劇場版の結末に度肝を抜かれて一ヶ月ほどが経つが、未だ余韻は抜けず、隙あらばまどほむについて考えている。ので考えを記しておきたくなった。

 

ストーリーについての考察
鹿目まどかの自己犠牲により、大団円を迎えた…と思われていたテレビ版のストーリーへの「叛逆の物語」。

 

どんでん返しとも言える大オチは賛否両論だが、どの視点で物語を見ているか(作品として俯瞰して見ているかどうか)で変わってくると思う。       が、"キャラ目線で見る"派の中でも、暁美ほむらの心情を重視するかどうか、つまり許容するかどうか、でまた受け取り方が変わってくる。その点も興味深い。

 

鹿目まどか」と「暁美ほむら」は、何故袂を分かったのか


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表の主人公・まどか、裏の主人公・ほむらという構成がなされているのがテレビ版だが、今作はストーリーの主軸を完全にほむらに置いている。


結末を含め、本編では描写し切れなかった(しなかった)暁美ほむらというキャラクターを補完する作品ではないか、と感じた。


まどかは自らの意志で「自らの人生と引き換えに、全ての魔法少女を救う」という決断を下し、「神にも等しい」存在になった。しかし、それを可能にさせる力を与えたのは他でもないほむらである。ほむらはまどかを救うために様々なものを犠牲にして戦ってきたが、最終的にはそれらの行動が自己犠牲を可能にしてしまった。

 

まどかは概念に成り果て、彼女の記憶はほむらの中にのみ残される。そしてほむらの願いは達成されることなく、「まどかにとっての」ハッピーエンドで「まどか☆マギカ」は一旦幕を閉じる。"たとえ全ての魔法少女が救われようとも、暁美ほむら個人の感情、そして献身は報われないのでは"という解釈を膨らませた結果の「どんでん返し」とも言える。

 

そして、ほむらが「大団円」の歪みを悟り、「まどかを守れる自分になりたい」という彼女の最初の願いに立ち返るのがこの映画の前半〜中盤にかけての筋書きだ。(花畑で2人が言葉を交わすシーンは、そういった意味で特に重要と言える。 まどかの「素の思い」を聞いたほむらは、まどかの願いを尊重するあまり封印していた「自らの願い」を再び胸に抱く)

 

そして終盤、ほむらは「円環の理」から本来のまどかをもぎ取り、自らが作った世界に閉じ込める。この映画について語られる際、この「悪魔化」のシーンの印象から「闇堕ち」等と表現されることが多い、しかし果たしてそれは正しい表現だと言えるのだろうか?

 

円環の理、鹿目まどかは、宇宙の因果律を書き換え、新たな摂理を制定した。確かに起こしたことの大きさで言えば神と言うべき存在(今作の中で、キュウべぇは円環の理を「神」、ほむらは「神にも等しく聖なるもの」と表現している)であり、それを貶めたほむらは悪魔と言うべきだろう。

 

しかし、彼女にとっては悪魔だろうと神だろうと何だって良かったのではないだろうか。(参考:Blu-ray特典、Material Bookの記述)


彼女自身、

「あなた(まどか)の為なら、私は永遠の迷路に閉じ込められても構わない」

(魔法少女まどか☆マギカ 第10話、暁美ほむら)


「どんな姿に成り果てたとしても、きっと平気だわ。あなたが側にいてくれさえすれば」

(叛逆の物語、鹿目まどかに再開した際の暁美ほむら)


と述べており、実際にストーリーにおけるほむらの行動は全て一貫してまどかのためのものだった。その行動原理は今作でもまったくブレておらず、悪魔化などは「結果のための行動による副産物」なのではないだろうか。(実際に彼女は、仲間の命を含め結末に至るまでの幾つもの時間軸でまどかのために多くの犠牲を払ってきた)

 

ここで注目すべき点は、TV版最終話においてキュウべぇに「神になるつもりか」と問われた際のまどかの答えと、ほむらのこうした思いは重なる部分がある、ということだ


「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる」

(魔法少女まどか☆マギカ 第12話、鹿目まどか)

 

魔法少女になる前のまどかとほむらは、ある意味で似た者同士であった(自己嫌悪、無力感)ことは幾度となく示唆されている。彼女らは二人共「自分が本当にやるべきこと」を探していた。


であれば二人は、その「自己実現」のための目的を、絶対に相容れない形でそれぞれ見出しぶつけ合った、と言えるのではないだろうか。


鹿目まどかは自らの願いのため(全ての魔法少女と世界のため)に、ほむらの想いを犠牲にし、
暁美ほむらも自らの願いのため(まどかを守るため)のために、まどかの想いを犠牲にしたのだ。しかしそれでいて尚、2人はお互いのことを想いあっている。


こう見ると、ほむらが成したことは、本質的にはまどかが成したことと変わらないようにも思える。こうした「真の正しさとは」という、いわば概念的なところに問いを投げかけ、訴えてくる作品である。

 

暁美ほむらの「理想の世界」と、美樹さやかとの関係


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彼女を語る上で興味深いことは、「行動の全てをまどかのためと位置づけながらも、他の人間をどうでもいいと思っているわけではない」ということが、語られずとも示唆されていることである。


魔女と化したほむらが創り上げた世界は、美樹さやかが表現したように、「皆で手を取り合って生きていく」世界。そこでは誰かが死んだり、絶望したりすることはなく、一切の「都合の悪いもの」が「都合良く」書き換えられている。


その世界の中で、転校生として見滝原中学にやって来たほむらはまどかと親密になる。そこがほむらが創りあげた世界である以上、これは当然だろう。(「鹿目さんとの出会いをやり直したい」という当初の願いの一部でもある)


が、それに加えて、「巴マミには、魔法少女になる前の彼女を支えていたベベというパートナーがいた」、「佐倉杏子美樹さやかの家に居候し、普通の女子高生のように学校へ通っている」といった設定も付与されている。


これらの「都合良い設定」こそが、ほむらの想いを暗に表している。彼女は確かにまどかのために多くの犠牲を払ったが、その犠牲に無頓着だったわけではない。(TVシリーズにおいて、杏子が魔女化したさやかと心中した後のシーン等でもそのことは仄めかされている)


だからこそ「叛逆」のさやかは、(「円環の理」の一部となったことで)ほむらの想いを理解し、歩み寄ろうとしている。本編では決して相容れなかった二人だが、ようやくその関係に良い兆しが見えるのだ。


「ねぇ、これってそんなに悪いことなの?誰とも争わず、みんなで力を合わせて生きていく。それを祈った心は、裁かれなきゃならないほど、罪深いものなの?」


「随分と手間かけさせてくれたもんだけど、まあ、あいつのためなら、仕方ないか。ここまで頑張ってきてくれたやつには、それなりのご褒美があってもいいもんね」

(何れも叛逆の物語、美樹さやか暁美ほむらに対して)

 

本編において、さやかはほむらを「転校生」と余所余所しく呼び続けていたが、終盤では「ほむら」と気兼ねなく呼ぶ。そしてそのまま、ほむらはまどかの救済を受け入れ、二人はついに和解に至る、筈だったが───

 

最終盤、悪魔ほむらが書き換えた世界の中で、さやかはただ一人、(百江なぎさは覚えていない一方で)ほむらが成したことを覚えている。さやかは自らがほむらに立ち向かうことが出来ないと悟りながらも、ほむらがやったことは忘れない、と咆える。


このパートの疑問として、「なぎさは自らが円環の理であったことを忘れている(忘れさせられた)のに、何故さやかは覚えていられたのか」ということが挙げられる。視聴者の中でも解釈が分かれるところだが、読み取り方の一つに「かつての自分を覚えている者に、消えてほしくなかった」というものがある。


当初、「悪魔ほむら」は今よりもダークで描かれる予定だった(1st take)が、視聴者に想像の余地を与えるために敢えて曖昧な描き方にした、そしてほむらに人間味を残したかった、ということが制作陣のインタビュー等で語られている。


だとすれば、前述の読み取り方も信憑性を帯びてくるように感じられないだろうか?「自分がいたことを、誰にも覚えてもらえない」辛さを味わいたくないがための行動だったのだろうか?

 

 


そのあたりは続編によって明らかにされそうである。ていうかさやかの指輪が映るところなどはもう完全に続編フラグである。にも関わらず6年も情報がない。出してくれ。「神と悪魔の誕生」ということで綺麗に纏まっているかもしれないが、それはそれとしてこのあとどうなるか見たいから出してくれ。

 

演出・魅せ方について


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ここからは、3000字を費やしてここまで述べてきたストーリーが、どういった風に魅せられてきたか、どこが良かったか、ということを述べる。(ここまでは一応考察だが、以降感想垂れ流し)

 

「希望を願い、呪いを受け止め、戦い続ける者たちがいる。それが魔法少女
冒頭、ほむらが魔法少女の運命について、ソウルジェムをバックに語るところから物語が始まる。裏ではどこかで聞いた声が、まるで昔話かの如く「円環の理」を語る。この演出は映画館ではめちゃくちゃ映えたであろう。リバイバル上映してくれ。

 

この語りによって、TVシリーズ、及び劇場版前・後編と共通した世界観である(注:厳密にはTVシリーズと劇場版はパラレルワールドTVシリーズは黒翼ほむらのシーンで完結している、とされている)ことを知らしめておいて、次の場面ではいきなり視聴者を混乱させる。概念と化したことが語られていた鹿目まどかが、当然のように世界に存在している。円環に導かれたはずの美樹さやかも。ここで視聴者(初見時の私)は「えっ?ここはどういう世界線?」と翻弄される。そして”Welcome to Cinema"の文字。


こういった仕掛けは、TVシリーズの頃から視聴者を翻弄することに定評があった本シリーズらしい巧みなやり口である。

 

「どんな子かな。お友達になれると良いなぁ」
そして何度目かの鹿目家。混乱する視聴者を後目に繰り広げられる"いつもの光景"と、喋らないキュウべぇ


そしてオープニング。神曲、「カラフル」。前編・後編同様ClariSの素晴らしい楽曲から始まる。(歌詞の考察は既出なので割愛)


オープニングでは、冒頭のような幸せな風景が繰り広げられる。ただ一人、ほむらを除いて。明るい曲調の中繰り広げられる明るい光景の中で、彼女だけが浮いている。(ここも含め、視聴者を世界観に引き込む冒頭部分の作画の美しさは特に素晴らしい。まどかがほむらの手を取り、走り出すシーンなどはコマ送りで観たいほど)


象徴的なのは、四人が楽しげにダンスを踊る中、茫然自失といった風にひざまずく彼女。ここで視聴者(初見私)は明るさの中にある不気味さや得体の知れなさを感じずにはいられない。


ほむらが手を伸ばし、触れようとしたまどかが砂となり消える、ほむらは涙を流し打ちひしがれる。カメラが引き、TVシリーズ最終話Cパートで描かれたような砂漠が映され、タイトルロゴ。始まって数分で、様々な感情と疑問を抱かせる完璧な導入である。

 

「まぁるいケーキはだーあれ?」
その後もしばらくは、真の魔法少女ものの如き平和な光景が続く。戦闘シーンの前では各自が変身をキメ(ここの作画すごすぎ)、「ピュエラ・マギ・ホーリークインテット!」とチーム名(一節ではマミさんがつけた等と)を叫び、華麗に戦う。戦闘シーンの作画などは、元々良かったTVシリーズから(潤沢な予算のためか)更にパワーアップしており、凄まじいゴージャスさになっている。最高。

ファンが、暁美ほむらが思い描く幸せで煌びやかな世界が展開される。

 

「私の中にあるあなたの印象と、その…あまりに食い違ってるんです。佐倉さんって、こんなじゃなかったような…」


そしてほむらが世界に違和感を抱き始め、杏子と共に風見野市へと向かうパート。ここの前後から不穏な空気か漂い出し、ストーリーの展開を感じ始める。本編でも、他のメンバーとは違う関係を見せた(9話終盤等)、ほむら×杏子の掘り下げ&ファンサービスでもある。


コラージュのような住人や、ゲームの裏世界のようなバスの路線など、アニメーションならではのやり方で不気味さを演出している。 ここでほむらがメガネを外し、三つ編みを解き、見慣れた風貌(クーほむ)に戻るが、このシーンの直前の、メガほむとクーほものちょうど中間、という微妙なところを演出に落とし込んだ声優の演技がもの凄い。

 

「記憶ってやっかいなものね…1つ取り戻すと、次から次へとよけいな思い出がついてくる」


そして(かつての)お菓子の魔女、ベベを結界を創り上げた魔女と断定し尋問しようとするシーン。「巴マミ。私はあの人が苦手だった」などと独白するほむら。(真実を突きつきけることが辛かった、という意)       

ほむらが世界に違和感を持ち始める辺りから、彼女の心情が世界自体に投影される演出が挟まれるようになり、それ自体が、この世界はほむらが作り出した世界であるという真実への伏線となっている。

 

「根比べなら、負けない」


そして始まるガン・カタ。凄まじい作画枚数。とにかくカッコいい。


オーディオコメンタリーで声優さんが「リベリオン(映画)を観てもらえると補足になる」と述べられていたので知見のためいつか観賞したいところ。そういえば、「叛逆」は英語で表現すると"Puella Magi Madoka Magica the Movie: Rebellion" だが、そこを狙ってのガン・カタなのだろうか。

 

「ご挨拶だね。あたしはあんたが知ってるとおりのあたしだよ。転校生?」


場面が変わりさやかとの問答。「後編」終了後に流れた予告で流れていた曲「for the next episode」のアレンジ、「another episode」。謎が謎を呼ぶと言った、ミステリアスかつ美しい曲の雰囲気が場面にドンピシャ。

全てを知っているかのような彼女の口ぶりは視聴者へのミスリード込みだろうか(オクタヴィアを召喚することも)。前述のように、さやかは「魔女となったほむらが創り出した結界」を否定しない。

 

「ほむらちゃん、ひとりぼっちになったらだめだよ」


そしてまどかと再会するシーン。二人の演技が素晴らしい。ほむらが決意を新たにした時、まどかが結んだ三つ編みがほどける、という演出はその後の展開を示唆している。
杏子→マミ→さやか→まどか と、全員に邂逅してゆく話の構成から、やはり今作はほむらが主軸のストーリーであると言える。花言葉にも意味があるみたいなガチ考察見て度肝を抜かれた。

 

「巻き込んでしまってごめんなさい」


バスに再び乗り込むシーン。世界が明確に壊れ始める。足音が何重にも聴こえる等、独特の演出が相変わらず良く働いている。イヌカレーの力。

 

「つくづく人間の好奇心というものは、理不尽だね」


キュウべぇの長台詞による種明かし。初めて複数個体が大量に映され、余計に嫌悪感を抱かせる。インタビューでも語られていたが、映像の情報量もセリフの情報量もメチャ多いのでここらへんは多分一度では理解しきれない。そして繰り返し観る度に演出の凝にも気づけて無限に楽しめる。Blu-rayを買いましょう。

 

「鹿目さん!私達も行くわよ!」


くるみ割りの魔女が姿を現す。ほむらは結界の中での自殺を試みる。そして始まるカウントダウン。神展開。さやかとなぎさの口上。さやかが「インキュベーター」と呼ぶのが感慨深い。We're here for youからのKalafina、ミステリオーソ。仲間として表れる使い魔達。ティロ・フィナーレ。アツい。さや杏。語るまでもない。

 

「わけがわからないよ」


ほむらが、「まどかを守れなかった、弱い自分自身」に銃を向けているのが痛々しい。(ここの自己嫌悪の描写は、コミカライズで更に掘り下げられている)
二人が弓を射んとするシーンは作画も相まって神々しい。絶望的に噛み合っていないということに気づかないまどか。

 

「待たせちゃって、ごめんね」


さりげなく後ろにいる中沢君。杏子が「あんたのベベ」と表現するのがとても良い。ハッピーエンドを祝福するかのように流れるアルティメットまどかのテーマ。

 

「この時を、待ってた」


宇宙を飲み込む彼女の愛。初見口ポカーンポイント。


ついに「利用される」側へと回るインキュベーター。奴等への叛逆の物語、でもある。
新たな「黒翼」。この時のBGMの曲名が「Her New Wings」。まどかと対象的な存在でありながらも、どこか神聖的な曲調がエモい。「まだダメよ」のフレーズが入っている。

 

「今の私は魔なるもの。摂理を乱し、この世界を蹂躙する存在」


ティーカップを割る」という、マミさん向けのやり方で決別を表明する。が、彼女の手には黒い羽。(これらの描写が、前述の「自分のことを忘れてほしくない」という説の裏付けとも言える)


杏子のリンゴを受け取らないように示しつつも、それを追いかける街の子供も同上。
ほむらの目つきや仕草が凄い。色っぽさがある。オーコメで提唱されていた「愛を自覚してから、色気を醸し出すようになった」という見方には目からウロコだった。

 

「まどか、って呼んでもいいかしら?」


件の「黄色のリボン」を身に着けているまどか。まどかが教室に入ってきた際の眼光がヤバい。碇ゲンドウポーズのほむら。


クラスメイトから明らかに距離を置かれているほむら。(案内をしている時、他の教室にいる生徒からも奇異の目で見られている)
目覚めかけるまどか。ここで黄色のリボンが弾け飛ぶのも意味ありげ。


鹿目まどか、あなたはこの世界が尊いと思う?欲望よりも秩序を大切にしてる?」


二人の道が、はっきりと分かれてしまったことが感ぜられる。「それでも貴方が幸せになれる世界を望む」と、もう躊躇う様子を見せないほむら。「涙を流す」という最後のシーンが、「悪魔」が人間性を失ってはいないことを象徴している。ここからエピローグにかけて神がかり的な芸術点。

 

エンディング。Kalafina君の銀の庭」。
本編の怒涛の展開の後の軽やかな曲調が染みる。
歌詞の意図するところは言わずもがな。ラスサビと、それに合わせての二人が手を繋ぎ走り去っていく映像の表現と余韻が最高。

 

エピローグ。ボロ雑巾と化したヤツ。「ルミナス」オープニングと異なり、隣のイスにはもう誰も座ってはいない。


映画の始まりであるオープニングと対象的に、ほむら一人がワルツを踊り、映画が・物語が終わる。やはりこれは暁美ほむらの物語だ、と再認識させられる。END,劇終。

 

シメ


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繰り返し観賞し、TVシリーズとはまた異なった雰囲気の世界観に浸っていたくなる芸術作品。
ストーリー、演出、キャラクターの見せ場、作画、視聴者への委ね方、何を取っても一級品。私の中のアニメーション映画ランキング暫定ダントツ一位であり、オールジャンルでも10本の指に入るほどの傑作だった。